2014年5月29日木曜日

屋根裏ポエトリー・ナイト にて


月に一度の朗読。
今回は新作を2作たずさえて参加。

間もなくワールドカップが開幕するということもあって、
つい、代表のユニフォームを買ってしまった。
誰かのまねのように、代表ユニを着て朗読。
誰かのことを、詩にしてしまったから。





「鏡」

自分は「鏡」だと思うことがある

静かに話す人の前では、静かに話し
感情を高ぶらせている人の前では、感情を高ぶらせ
多くを語る人の前では、多くを語り
無口な人の前では、無口でいる

何を怒っているの?
と言われたことがある
でもそれは、きみが怒っているからだ
怒っている本人は気付いていない

ぼくは鏡だから
きみの姿を映しているだけ
笑っているきみに、笑い返し
泣いているきみに、泣き顔になり
怒っているきみに、怒ってしまう

共感してると言っていい
共有してると考えていい
ぼくは鏡だから
そうしてたんだ

でも、それでいいのか?
ぼくは本当に鏡なのか?

泣いているきみを、笑顔にしたり
怒っているきみを、笑顔に出来る
そんな自分に成れないのだろうか



「詩人について」

詩人とは厄介なもので
それが自称であればなおさらである

大きく分けると二種類の詩人がある
一つは 今病んでいる詩人 と
もう一つは 昔病んでいた詩人
昔病んでいた詩人は
既に死んでいる詩人 と まだ生きている詩人
の 二つに分けられる

既に死んでいる詩人は
寿命によるもの 病によるもの 事故によるもの
があるが、中には
自らの意思によるもの がある

詩人の自殺率は そのほかの一般に比べて
高いように思われる

表面的には 楽しい詩 躍動感のある詩
などを発表しながら
死後 それらとは違う 悲しみや 叫び
あるいは 罵詈雑言を書きなぐった言葉が見つかったこともある

自ら死を選んだ 彼らの多くは
自分の言葉を 守ることが出来なかったのだろうか
自分の言葉に 押しつぶされてしまったのだろうか

障害者手帳を振りかざして
自らの精神の崩壊をネタにして朗読していた人も居た
発することで 上手くバランスが取れているんだろう
何事もバランスなんだと思う

彼の逸話で
ヤバい連中に囲まれた時の話がある
「お前らは俺を殺したら殺人犯になる
 俺はお前らを殺しても名前すら出ない」
そう言って その場を脱出したとか

それをかっこいいと思ったぼくは
少し病んでいるのかもしれない

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